2005-12-24

籠釣瓶 雑感

スカパー歌舞伎チャンネルにて、勘三郎丈襲名披露の籠釣瓶を鑑賞。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。

歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。

今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)

道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。

勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。

チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。

2005-09-12

トロント映画祭

分かる人には分かる某2ショットに息が止まるぐらいの喜び。
ああ、もうホントにありがとう…!!!

2005-08-10

「わたしたち」のエコ

最近いくつかのエコロジーを訴えるサイトを見たのだが、いつも気になるのが「わたしたち」という言い回し。

〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。

確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。

「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。

2005-07-27

ぜっっったい見に行く!!!

「ジョン・ウー監督の三国志映画、主演に渡辺謙を起用。」っですって?!
思わず鳥肌が立った。曹操役だなんて、なんて素晴らしいキャスティングだろう。「独眼竜政宗」以来の渡辺健ファンとしては、これは決して見逃してはならない。

この映画は長い長い三国志の中から、特に「赤壁の戦い」を中心に制作されるらしい。「演義」にでのイメージに従うなら、曹操はやはり敵役だ。特に前半の山場の一つである赤壁では劉備が初めて曹操に勝利をあげる場面でもあり、いわば敗戦の将の役であるからこそ、異例の日本人主演起用がなされた、って事もあるだろう。

しかし、ポイントなのはこれが惨めな敗戦ではないということ。関羽との義があればこそ、ここでの曹操は逃げ延びることが出来たのだから。
私の大好きな北斎の肉筆画に「赤壁の曹操」を描いたものがある。月夜に小さい船で一人落ち延びていく曹操は、櫓を垂直に構えてぴしりと立ち、落ち来た方を見つめる目線には威厳を感じる。まさか、この絵が映画の中で再現されるとは思わないが、構図といい、雰囲気といい健さんが演じるにぴったりの場面であることは間違いない。

チョウ・ユンファ、トニー・レオンなどの名前も候補に挙がっているようだが、渡辺健の演義は居並ぶ中国人スターの中で必ず観客を魅了してくれるだろう。完成、そして公開が今から楽しみでならない。

2005-06-16

National Treasure!

ご存じショーン・ビーン(…またです)目当てで見に行きました。私的には本筋に関係のないショーンのシーンがめちゃ楽しかったv粗は色々ありすぎて描ききれないぐらいなんだけどね。とりあえず言うなら国宝も可燃物ありなんじゃ?ってとこかな。
これが今AmazonでDVD予約受付中なんですが、2293円だって。ちょっと買っちゃってもいいかな、っていうぐらいのお値段だなあ。どうしようかなあ。今月散財してるから…。

もひとつびっくりしたのは、冒頭、主人公の子供時代のシーンでヤケに美形のおじいちゃんだと思っていた人が、サウンドオブミュージックのトラップ大佐だったこと!エーデルワイスのあの人が!!!
いやあ、ステキなご老人だなあと思ったんだよね。さすがだなあ。
両親の唯一の思い出映画(デートで見たんだろうなあ…)らしく、うちにサントラLPがありました。
子供の頃から大好きな映画の一つだけど、大人になってから見たら大佐は若々しくてとっても可愛い人だった事に気づきました。やたら怖い人(最初はね)で、ちょっとだけ根っこの方がユーモラスだと思ってたのに。視点って変わるもんだね。

2005-06-12

参照頻度が高い

なんで普通に「よく見る」って言えないのか。
我ながらホントに職業病。

2005-06-01

床下の小人たち

こちらも大人になってから読み始めた作品。Vanilla(同居人・パートナー)が子供の頃愛読していたらしく、ぜひ読めと勧められた。

Borrowers(借り暮らしと訳されている)の人々の生活を描いた物語なのだが、そのリアリティがすごい。彼らは夢の小人ではなく、生活者なのだ。食べ物のこと、家具のこと、大きい人たちから借りて形作られる彼らの暮らしが丹念に描かれている。
主人公アリエッティとポッド(父)とホミリー(母)という3人家族を中心に物語は進むのだが、私は特にホミリーが素晴らしいと思った。最初大きな家に住んでいる頃のホミリーはヴィクトリア朝的なピューリタニズムを基盤としていて、その規範の中で生きている印象がある。娘のアリエッティは冒険心に飛んでいるので、そんな母に行動を止められたりとがめられたりすることに不満を持つ。が、大きな家を追われ、野原で生活し始めると、はじめは不満と不安で一杯だったホミリーが徐々に解放されていくのだ。娘と木登りをして開放感を感じたり、行動や決断が大胆になっていく。中学生くらいの子供を持つ母親、という立場の人物の変化をこういう側面から書いていくことはなかなか出来ないと思う。大体は一家の安全弁としての役割を振るのではないだろうか。非常に興味深い。
まだ3作目までしか読んでいないので今後の展開は分からないが、私の希望としてはホミリーが自分の規範から逃れ出て、より開放的な人になっていって欲しいと思う。

現在岩波少年文庫から年に1冊ずつ新版が発行されているのだが、もう少し発行ペースをあげて、せめて年に2冊出してくれると嬉しいんだけども。

2005-05-21

ナルニアとキリスト教

先ほど「最後の戦い」までの全巻を読了。前に書いたジェンダーバイアス以上に、キリスト教思想とオリエンタリズムから来る差別意識の強さにぐったりしてしまった。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。

奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。

こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。

2005-05-18

ナルニア

これまた今頃になってナルニアを読み始めたのだが。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。

指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。

どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。

色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。

思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。

2005-05-14

サウンド・オブ・サイレンス 鑑賞

悪役の人であるショーンを目当てに、「サウンド・オブ・サイレンス」鑑賞。
…監督で映画を選ぶことはあっても、俳優で映画を見るようになろうとはちょっと前までは考えられなかったのになあ。まあいいんだけど。

画面も、俳優も良い出来なのに、いまいち身に迫るものが無いというか。そこここのレビューで書かれているとおり、ちょっともったいない映画でしたね。監督やプロデューサーが豪語する「構想12年」というのも信じがたいぐらいな…。

ショーンは現代物になると悪役が多い。(あまりにも端正な美貌なので冷たい印象を持たれるせいではないか、とどこかのインタビュアーが書いていたが、その通りだと思う。)今回も10年前に仲間の裏切りによって奪われた赤いダイヤを手段を選ばず取り戻そうとする犯罪者の役。
ただ、この人場合単なる悪党に終わらないのは、目と目線の演技があるからだと思う。ためらいなく暴力をふるい、人を殺すような役であっても、必ずシーンの中に細かい目線の動きの演技が入っている。少しだけ逸らされた視線や、惑うような瞳の動きによって、役の持っている弱さや、迷いなどの負の内面をセリフによらずに演技の中によぎらせ、人物を複雑なものにしているから見応えがあるのだ。

畢生の名演だったボロミアはもちろん素晴らしいんだけど、この人の演技だけで魅せるような脚本が(出来れば主演で!)回ってこないものか、と思うのはファンの欲目だろうか。絶対に観客をうならせるような映画になること請け合いなのに。(「オデュッセイア」映画化は噂だけで終わっちゃうのかなぁ。 )
直前にヴィゴ・モーテンセン「オーバー・ザ・ムーン」を見ていたので余計にそう感じたのかも知れない。(しかし、何で原題のWalk on the Moonじゃいかんのだ。月を越えちゃってどうするよ。)あの映画は結構地味なストーリーなのに、ヴィゴの演技から目が離せない。

ヴィゴといえば、マイケル・ダグラス。どうしてあんなに悪人面で雰囲気が悪いのか。「ダイヤルM」の時も思ったけど、どう見ても登場人物の中で一番悪い人にしか見えない!演技がうまいだけに印象も強くてなんとも…。

2005-05-04

おめでとう!!!

中学の頃からのお友達が、4月30日に第2子の女の子を出産したそうです。おめでとう!
1月頃はちょっと体調が心配されるようなこともあったので、無事に産まれたというニュースがとてもとても嬉しい。本当に良かったね。
写真を送ってもらった限りではママ似の美人さんになりそうで楽しみです。何とか機会を見つけて会いに行くから、元気にしっかり育ててね。

Bloggerの使い心地

実はここが2つ目のblogになるんだけど(mixi入れると3つ目か)大変快適。
何が一番いいって、エントリを書くための入力スペースが使いやすいこと。スペースが広くて、フォントの設定が大きめで、何だか自分のエディタに書くように書きやすい。
テンプレートもシンプルで綺麗だし、なんだかいいなあ。あとはカテゴリ分けに対応してくれれば言うことナシ。
あ、画像のアップロードに関してはまだよく分かってないんだけどね。

電子辞書でテキスト

電子辞書でテキストファイルを読んでいる。パソコンの画面は書くのはともかく読むのには適さないと思っているので、ちょっと長めの文章ならSDカードに保存して電子辞書で読む。ちなみに使っているのはシャープのコレ
メリットが大きいと思うのは英文を読むとき。一々単語を打ち込まなくても本文中からジャンプで検索できるのが本当に便利。電子辞書の前はpalmで同じように内蔵辞書を使って読んでいたのだが、そりゃーもちろん英英、英和、和英としっかり揃えてある電子辞書の方が何倍も便利だ。かなりさくさく読めて、気分がよろしい。

しかし、こんなに便利なのにSDに普通に保存したテキストが読めるのはシャープでも2機種だけ。カシオが新しく出した機種ではテキストに対応したようだけど、わざわざ別のソフトを使ってUSB接続した辞書にファイルをアップロードしないといけないらしい。面倒だ。siiも外部辞書用のスロットが付いた機種を出したけど、こちらは自社規格のカードで汎用性が低い。
確かに、もっと自由度が高くファイルを扱いたいならPDAを使うべきなんだろうけど、現行のPDAで電子辞書に入っているような冊子体フルコンテツの辞書を載せている物はない。(ソニーのにあったかも……。)自分で辞書データを変換して使うのは結構手間がかかるし、大容量のSDカードなどの出費も馬鹿にならない。
結局、電子辞書で読むのが一番効率がよいのだ。すべての、とは言わないがもっとたくさんの電子辞書が外部スロットを持ってテキストファイルに対応してくれると本当にありがたいんだけど。
加えて言うなら、メモ程度でいいから簡単なテキスト入力ができるとなお便利なんだけどな。携帯にだってスロットが付いて、テキスト入力と保存ができるんだからそんなに大変な技術ではないと思うんだけど。siiあたりが英断で出してくれないかな。

2005-05-03

脱衣婆

「真夜中の弥治さん喜多さん」に脱衣婆が地母神だと自ら名乗る場面があるのだが、田中貴子氏の「性愛の日本中世」に脱衣婆には生と死を司る機能がある、という箇所を見つけてビックリ。生まれるときに胞衣(えな)袋〈つまり胎盤ですね〉を貸し与え、死んだときにはその衣を奪うのが脱衣婆の役割なんだそうで、象徴的に生死を司る存在であるらしい。よく見ると胞衣にも「衣」の字が入ってるし、そのあたりも関連しているのだろう。
しかし、しりあがり寿奥が深い。他の作品も気になるところ。

***

追記。
脱衣婆の「衣」についてもう少し考えてみた。
仏教的には現世にある人は「魂・たましい」と「魄・からだ」とが合一した存在で、死ぬと「魂」が「魄」から離れて黄泉路へ行くと考えられている。ということは、地上に産まれるにあたってはじめて人は「魄」という「かたち」を得るのだと考えられる。
つまり、脱衣婆がひとに貸し与え、奪う「胞衣袋」「衣」が、すなわちこの「魄」に当たるのではないのだろうか。ひとは胎盤によって魂を包む「かたち」である人の体を手に入れ、また死ぬときに三途の川の此岸で、すなわち生死の最後の境界線を越える直前、まだぎりぎり人である時点で衣服というひとの「かたち」を脱衣婆に返上して川を越え、「魂」に戻るという一連の流れを見ることができるのだ。
「衣」に象徴される生死に伴う「魄」の管理を司るのが脱衣婆の持つ役割なのだといえる。「三途の川の脱衣婆」と呼びならわされるように、死に関わる側面ばかりが一般に強調される脱衣婆が、こんなに重要な存在だったとは…。

2005-04-18

Happy Birthday Mr.Sean Bean !!!

いちんち遅れだけど、46歳にしてますます笑顔がキュートなSean Bean氏に。
あなたの新しい一年が素敵なものに満ちて、幸せでありますように。

しかし、こんなにもこのイギリス人俳優を好きになってしまうとは思わなかった。一時期「英国」の文字を見ただけで動悸が高まる病いに冒されていたぐらい。
ともかくもgreen oparlとも、jadeともいわれるあり得ないくらい美しい目と作り物のように綺麗な手と、それからとびきりの笑顔に気が付けばノックダウンされて早4年。
ホントにどんな魔法でそんなに素敵なまま年を重ねちゃってるんですか?おかげでいつになったらこの気持ちが落ち着くやら、見当も付きませんよ……。

2005-04-12

真夜中の弥治さん喜多さん

江戸の虚無(作中では“ぺらぺら”)は、自分の力ではどうにも変えようのない人生から生まれてくる物なのだろうか。ひとは、その出自を一歩も動くことは出来ない、という。
特に中期から後期に掛けて戦国から安泰へと社会が固まって行くにつれ、さらにその虚無は深くなっていく。特に江戸という都会の人々はどんどん生きる意味を見失っていく。言葉を換えれば、いきるとしぬとの境目が曖昧になっていく。

しりあがり寿のこの作品はその曖昧な境目(これは私の専門領域だ)を希有なぐらい見事に描き出している。幕末の名歌舞伎作者、河竹黙阿弥が死と婚礼を劇中で意図的にない交ぜに描いて見せたのと同じ精神がそこにはある。乱歩ではないが、「一期は夢」なのだ。黙阿弥の諦観とも言うべき生と死の混淆はおそらく江戸の虚無そのものだ。自分の踏み出した一歩先はもう影がない世界なのかも知れない。その境目は日常と背中合わせにある。メメント・モリ。

映画化されることで、この虚無がどのように映像になるのか。七之助は虚無と同化しながらも弥治さんを愛するという一点のみで日常とリンクしている喜多さんをどう演じるのか。楽しみでならない。