2005-08-10

「わたしたち」のエコ

最近いくつかのエコロジーを訴えるサイトを見たのだが、いつも気になるのが「わたしたち」という言い回し。

〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。

確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。

「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。