2005-05-03

脱衣婆

「真夜中の弥治さん喜多さん」に脱衣婆が地母神だと自ら名乗る場面があるのだが、田中貴子氏の「性愛の日本中世」に脱衣婆には生と死を司る機能がある、という箇所を見つけてビックリ。生まれるときに胞衣(えな)袋〈つまり胎盤ですね〉を貸し与え、死んだときにはその衣を奪うのが脱衣婆の役割なんだそうで、象徴的に生死を司る存在であるらしい。よく見ると胞衣にも「衣」の字が入ってるし、そのあたりも関連しているのだろう。
しかし、しりあがり寿奥が深い。他の作品も気になるところ。

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追記。
脱衣婆の「衣」についてもう少し考えてみた。
仏教的には現世にある人は「魂・たましい」と「魄・からだ」とが合一した存在で、死ぬと「魂」が「魄」から離れて黄泉路へ行くと考えられている。ということは、地上に産まれるにあたってはじめて人は「魄」という「かたち」を得るのだと考えられる。
つまり、脱衣婆がひとに貸し与え、奪う「胞衣袋」「衣」が、すなわちこの「魄」に当たるのではないのだろうか。ひとは胎盤によって魂を包む「かたち」である人の体を手に入れ、また死ぬときに三途の川の此岸で、すなわち生死の最後の境界線を越える直前、まだぎりぎり人である時点で衣服というひとの「かたち」を脱衣婆に返上して川を越え、「魂」に戻るという一連の流れを見ることができるのだ。
「衣」に象徴される生死に伴う「魄」の管理を司るのが脱衣婆の持つ役割なのだといえる。「三途の川の脱衣婆」と呼びならわされるように、死に関わる側面ばかりが一般に強調される脱衣婆が、こんなに重要な存在だったとは…。

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