2005-04-12

真夜中の弥治さん喜多さん

江戸の虚無(作中では“ぺらぺら”)は、自分の力ではどうにも変えようのない人生から生まれてくる物なのだろうか。ひとは、その出自を一歩も動くことは出来ない、という。
特に中期から後期に掛けて戦国から安泰へと社会が固まって行くにつれ、さらにその虚無は深くなっていく。特に江戸という都会の人々はどんどん生きる意味を見失っていく。言葉を換えれば、いきるとしぬとの境目が曖昧になっていく。

しりあがり寿のこの作品はその曖昧な境目(これは私の専門領域だ)を希有なぐらい見事に描き出している。幕末の名歌舞伎作者、河竹黙阿弥が死と婚礼を劇中で意図的にない交ぜに描いて見せたのと同じ精神がそこにはある。乱歩ではないが、「一期は夢」なのだ。黙阿弥の諦観とも言うべき生と死の混淆はおそらく江戸の虚無そのものだ。自分の踏み出した一歩先はもう影がない世界なのかも知れない。その境目は日常と背中合わせにある。メメント・モリ。

映画化されることで、この虚無がどのように映像になるのか。七之助は虚無と同化しながらも弥治さんを愛するという一点のみで日常とリンクしている喜多さんをどう演じるのか。楽しみでならない。

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