2009-08-08

コクヨの文庫本ノート

 
コクヨの文庫本ノート、いいです。

なんかすごく書きやすい。
この書きやすさを作ってるのは罫線だな、と思いますね。
紙質の良さは大事な要素だけど、それだけではこんなに書きやすくはならない。

コクヨの、例えば大学ノートなんかと比べて、罫が気持ち太い。
そして色も少し濃いかな、と思います。でも邪魔にならないぎりぎりの所。
罫の太さが、紙面にちょっと柔らかさを出してる。

邪魔にならないっていうのは、自分的にはかなり重要なポイント。
罫が気になると、紙と長時間向かい合ってるのがしんどくなってしまう。
いいバランスで作ってあるな、と。

他にもお気に入りポイントが。

▼しおりがついている
 新潮文庫ライクな感じのグレーのしおり。(新潮は茶色)  

▼インデックスを付けられる
 紙カバーの見返しにリスト用のスペース、ページ端にタグを付けるスペースが
 あらかじめ設けてあります。
 書いたものを検索するための既存のノウハウですがはじめから準備してあるのはやっぱりありがたい。

▼糸とじ
 製本も文庫的に糸とじで。
 のり付けよりも開きやすいので、この辺も書きやすさにつながってますね。

◆      ◆      ◆

一緒に5ミリ方眼のタイプも買ったので、早くこっちも使ってみたい。
ものを書く紙面としては方眼が一番好きなので。
 

2009-08-02

日食

7月22日の日食@福岡。

「ちょうどピークの時に雲がかかったのでうまく撮れた」
、とのvanilla談。

私は出勤で、職場の窓から一瞬だけ見ました。


2009-08-01

源氏物語のテキスト

 
以前、院の頃に与謝野晶子源氏を通読したことがある。
(今は随分ラブリーな表紙になっちゃってますが、前の切り絵風のバージョンで)

言葉遣いが典雅で、とても雰囲気があるんだけど、いかんせん人物名がその時点での役職名で書いてあるので、この巻での左大臣は「誰」なのか、という把握ができなくて結構混乱した。

その後、原文を読んでみようと思い立ち、北村季吟『湖月抄』(江戸時代の注釈書)を「雨夜の品定め」で挫折。(あんなつまんない場面を名文とか言う人の気が知れない。)

◆      ◆      ◆


今回は「きちんとした現代語訳」を読もうと思い立ち、いろいろ検索して決めたのがこれ↓。
玉上 琢弥『 源氏物語―付現代語訳(角川ソフィア文庫) 』

現代語訳だけ読めればいいかと思ったんだけど、訳注が原文の方についているので原文に目を通しているうちに、主に原文を読んで訳で補完する、という読み方に。
(だから恐ろしく進みが遅い。)

さらっと読めるところもあるけど(主にA系)、発言者を勘違いしたり、誤読したりするところも多い。
でも自己満足的ではあっても、やはり極力書かれたものに近いテキストを読むのが楽しい気がする。

この玉上琢弥氏のバージョンは、学術書として出された注釈書の簡易版なので、脚注以外にもいろいろおまけがついていてとても助かる。
巻ごとの(←ここポイント高い)人物相関図や、年表、引用漢文の白文、内裏図、京都図などなど。

カルチャースクールの源氏講座の教科書に指定されたりするらしいのもうなづける。
これが文庫で手軽に手にはいるなんて、ありがたい限りだ。

◆      ◆      ◆

ゆっくりではあっても今回は楽しんで読んでるので、きっと須磨帰りはないはず。
しかし、「夢の浮き橋」までたどり着くのはいつのことやら。
 

源氏物語

 
冬ぐらいから気長に読んでる。
(54帖頑張ってると他の本が2年ぐらい読めなそうだから。)

今「賢木」の巻。
葵の上が亡くなって、六条御息所が斎宮になった娘と一緒に伊勢に下向する前ぐらい。

これは読んだ人なら誰でも思うんだろうけど、あんなレベルの高い文学が1000年も前に書かれたことが、まず信じがたいぐらいすごいこと。

そして、源氏物語を基底として日本文学が発展して来られたのは奇跡に近い幸運だと、私は思う。

◆      ◆      ◆


今まで読んできた中では、「夕顔」が特に素晴らしかった。

「夕顔」はいわゆるB系に当たり、要は後から書かれて差し込まれたと考えられている巻の一つ。
なので「桐壺」などと比べると、テキストが技巧的で、ちょっと読みづらく感じるところがある。

けど、夕顔が亡くなる前後の描写はちょっとしたホラー顔負けの迫力だし、源氏が参内しなかったのを心配して訪れた頭中将との問答もなかなかの緊迫感で読み応えがある。

私が特にすごいと思ったのは、源氏が夕顔の野辺送りに行く場面。

綺麗な死に顔を見て、亡くなったとはとても信じられない、自分の手で見送らねば、と思い詰めた源氏。
本当は行ってはならないと分かっているので、身をやつして馬でこっそり出かける。

その場面で一言、「道が遠く感じる」と書いてあるのだ。

なんだかこの一言で、源氏の落胆、悲しみが一気に分かってしまって、思わずため息が出るようだった。

◆      ◆      ◆

ひとは1000年前とそんなに変わっていないから、私たちは古典を楽しむことができるんだと思うけど、やはり源氏物語は別格だ。

伊勢物語や他の同時代の作品にも優れたものはあるけど、とてもじゃないが格が違うと思う。

まだまだ先が長い。
楽しみが長いってことは素晴らしい。
 

2009-04-21

落ち椿



落ち椿の風情を教えてくれたのは、rootちゃん。
桜も椿も、木を離れてしまってもそれぞれに光を内包している気がする。
Posted by Picasa

2009-04-20

ごまパン!


暖かくなってきて、発酵も楽になりました。
ウー・ウェンさんレシピのごまパン(空心餅)です。見た目はちょっとアレ^^;なんですが、もっちりこうばしく、ごまのプチプチ感がやみつきに。
生地作りはホームベーカリーで手抜きなので、もっと頻繁に作ればいいんだけど…。

Posted by Picasa

2009-04-19

八重





小倉城の八重桜。
咲いているときは桜餅のようで大変愛らしいですが、散り敷いた花にしかない美しさ、というものもありますね。
Posted by Picasa

2008-05-20

桜水ようかん

重いエントリの次なので、おいしいものの話など。

お菓子を作る人には超有名店である、「クオカ」という製菓材料店。
福岡にはリアル店舗もあるが、ネット通販も使いやすくて
私はどちらも愛用している。
最近はとんとお菓子を作っていなかったので、主にパン用強力粉だの、
天然酵母だのを買っていたのだが、メルマガに触発されて久々に
和菓子の材料をいくつか買い込んだ。

そのひとつが季節限定の桜あん。
綺麗な桜色の白あんに、桜の葉の塩漬けが刻んで混ぜ込んであって、
ほどよい甘みと少しの塩味、それに桜の香りが何ともバランス良く
調和していて美味しい。
寒天と砂糖を煮溶かして、この桜あんんと混ぜて固めるだけで、
大変美味しい水ようかんができるのだ、という。

届いて早速作ってみたが、本当に簡単だった。
計量から15分もかからずにバットに水ようかんを流し込み、
後は冷蔵庫で固めるだけ。
かつて調理実習で作った、鍋であんを練るのがえらいこと大変だった
水ようかんとは比べものにならない手軽さだった。

自家製の水ようかんは、和菓子屋さんのものよりもさらにみずみずしく、
上品な甘みと桜の香りが日本茶に大変よく合う。
店売りの美味しいあんこを見つけるのは意外と難しいけど、
見つかりさえしたら、夏のおやつとしてはとてもおすすめだ。

2008-03-17

自転車買ってしまいました!

ラレーのマリオン26、色はマルーンレッド。
(マルーンとは何かと思ったら、マロンのことらしい。ブラウンとボルドーの入った、シックな赤。)
ママチャリ風の外観(しかも前かごをつけたのでさらにママチャリ的。)だけど、実はクロスバイク。
標準装備の泥よけやスタンドを含めても12.5kgしかない。

走りはともかく“なめらか”。
タイヤが38と太めなので、早さはそんなに出ないんだけど、軽い力でどこまでも滑るように走る。舗装が綺麗な道路だと音もしないんじゃないかっていうぐらい。
26インチのタイヤは意外に取り回しが良くて、小回りもきくし、走り出しのスピードもすぐにのってくれる。
ともかく乗っていて気持ちがいい、走るのが楽しい。

主に片道5kmの通勤に使う予定なのだけど、早くも週末には天神まで買い物に行ったり、室見川まで軽く走ってみたり。この調子でいろいろと行動範囲を広げてくれそうな予感がする。

2007-12-24

JIB for D40

 

カメラ用に注文していたJIBのダッフルバッグが到着。サイズはSS。
これがまた、軽くてかわいくて丈夫で、しかもカメラバッグには見えないという(私にとっては)いいことづくしの一品。
クッションケースに入れたD40と、お財布、ケータイ、文庫本、手帳(rido)、化粧品(ミニマム)程度は楽に入る。詰め込めばもうちょっといけるかもしれない。
カメラを入れずに、旅行用の手回り品バッグにもぴったりなサイズ。(その場合はペットボトルやガイドブックを追加で。)

今日初使用で、1日持って歩いてみたが、取り回しもいいし、何よりショルダーストラップが肩から落ちないのが、ものすごくありがたい。
(↑かなりなで肩なので、大抵のストラップ類は下がってきてしまう)
先日別のバッグで出かけたときはカメラを重く感じたけど、今日は特に気にならなかったのはおそらくこのおかげではないかと。
ストラップ以外にしっかりした持ち手がついているのもとても便利。レジでの支払いとか、ちょっと手持ちしたい、という場面は意外にある。

鞄自体が薄くて軽いので、中身にあわせて自然に変形して体に沿ってくれるところもいい。
カメラバッグの候補に、妹が使っているCRUMPLER も入っていたのだが、形がかっちりしすぎて嵩張るのが気になっていたのだ。もっとも、海外に行くときなんかは、あれぐらいしっかりしたバッグの方が安心感があるかもしれない。

 

使い回しを考えて黒を選んだのだが、前面とストラップにあしらわれたクジラマークがアクセントになってホントにかわいい。黒はそんなに汚れが目立つ色ではないけど、いざというときは洗えるという安心感もポイント高い。

実はこれ、vanillaからのクリスマスプレゼント。大事に長く使おうと思う。
Posted by Picasa

日本茶と茶こし

日本茶のおいしさって、多少のにごりの中にある気がする。
茶こしを使ってきっちり濾してしまうと、なんだか味がしゃらっとしすぎて物足りない。というかはっきりと不満。
どこかのお茶屋さんが、「(急須の中で)茶葉をぎゅっと押しつける」過程がないと味が出ない、といっていたのを読んだけど、まさにその通り。
急須の内部にある茶こしでこしきれない茶葉があって、それが湯飲みの底に沈んでいるようなお茶の方が、私にはおいしいと感じる。

紅茶の場合はざらつきを防ぐために目の細かい茶こしできちんと濾すこと、渋みが出るので茶葉に圧をかけずに抽出するティーポットを選ぶこと、というのはほとんどセオリーになっている。
中国茶は茶葉を裁断しないのが基本。なので、茶こしを使わなくてもあまり茶器に茶葉が入らない。それでも気になる人は茶こしを使う、という感じ。好みで選ぶ。

同じ木の葉っぱを使って作る飲み物への感覚が、これほどそれぞれに違ってくるのは本当に不思議だ。だからお茶飲みはやめられない。

2007-12-21

ひくくとぶ

 

みなもを。
Posted by Picasa

2007-12-18

2008の手帳 その1。

 

2008年の手帳 その1。
一度は使ってみたい、ちくま文庫手帳をセレクト。
食事メモ、覚え書き、行動記録に。
(スケジュールは昨年通りにridoのミニプランナーで。)
書き込み用のペンが決まらないのが悩み。bicの4色ボールペンが一番いいんだけど、一緒に携帯するのが難しい。
かといって、せっかくの安野光雅氏の表紙絵をカバーで覆ってしまいたくないし…。
今年この手帳を使った友人は万年筆もいいといっていたので、試してみたくはあるんだけど、何にせよ考えないとね。
Posted by Picasa

2007-12-15

やたらと元気な

 

香菜(シャンツァイ)。一週間モノ。
Posted by Picasa

2007-12-14

さてさて。

ずいぶんと長いことさぼっていたブログを再開してみようと思う。

この1年半ほどの間で、Picasaとbloggerとigoogle(今ひとつかっこわるい名前。グーグルホームで十分だったのでは…。)との間がかなりシームレスになった。今はすべての写真をPicasaで管理しているのだけど、そこからボタン一つでエントリできるのはとてもよろしい感じ。
(ただ、日本語版igoogleではbloggerはまだなんだか隅っこの方にある感じで、意外にgoogleがブログスペースを持ってることを知らない人も多そうだ。)
あとは、ラベル機能がついたのは特筆に値する。カテゴリを分けすぎるのも混乱の元だけど、すべてのエントリが並列なのはちょっと不便すぎるから。

ともかく、モノを書く場所があるのはいいことだ。辺境の片隅でも、誰かの目にとまることもあるかもしれない。

本日の買い物。

 
いいペンといい本と。
Posted by Picasa

2006-06-13

文学

好きだった、大好きだった。

学ぶことも、考えることも、分析することも。
新しい知識に触れ、蓄積し、それが自分の中で体系化されていくあの感触。
特別な時間を贅沢に過ごしたんだと思う。

今の苦境も、結局は自分が招いたことだ。
自分の決断に(もしくは決断できなかった自分に)
責任を取らねばならないということ。
多分それだけ。

それでも、与えられた場所があるのだからそのために努力しなくては。
最後まで頑張ろう。出来ることはそれだけだ。
最後まであきらめずに頑張ろう。

2006-02-21

茶壺と蓋碗


中国茶の茶壺は水道水で洗ってはいけないと言われている。
塩素を吸収して、お茶の味に影響が出るから必ず沸騰したお湯ですすぐのが良いと。

うちにも一つだけ茶壺がある。
高い物ではないが、手作りで、凹凸があるのになめらかな土の表面をしている。
私には大事な物なので、一生懸命マニュアル通りに沸騰湯で洗って使っていた。
そのうちに、お茶に向かう気合いがないときには使わなくなり、 とある蓋碗を入手したのと入れ替わりに台所の片隅の茶道具コーナーに収まってしまった。

蓋碗というのは茶托と蓋のついた茶碗で、これもまた中国茶の茶道具の一つ。
茶を飲むのにも使えるし、淹れることも出来る。
素材は大体磁器かガラスの物が多いのだが、私の蓋碗は土物。常滑の産だ。
おそらく釉はかかっていない、ざらりとした手触り。しかし繊細。
安定性も良く、ガラスなどに比べて熱くなりにくい。とても使いやすいのだ。
その使いやすさと、土物ゆえに雑味を吸収して綺麗なお茶を入れてくれる質の良さに、あっという間に私の中国茶器はこの蓋碗一辺倒になってしまった。

で、ある時ふと気付いたのだ。
私はこの蓋碗を、何の疑問も持たずに水道水で洗っていることに。
日本茶の急須よりも、茶壺よりもよっぽど塩素を吸収しやすそうな蓋碗。
しかし、そのせいでお茶の味が悪くなったとは全く感じられない。
変わらずに甘みの際だつ、すっきりとしたお茶を飲ませてくれる。

台湾茶芸のイメージもあって、中国茶は複雑な手順を踏まなくてはならないと言う無意識の規範にいつのまにやら私も囚われていたようだ。
そんなことよりも、日常の中で茶を楽しみ、茶の時間を楽しむのでなければ、折角の茶器も茶道具も、手元にある甲斐がないというもの。

久方ぶりに茶壺を引っ張り出して台湾の梨山茶を入れた。
茶海にお茶が注がれるこぽこぽと小さな音。
香りが鼻の奥から口に、目の奥にまで抜けていく。
そして、思い切りよく茶壺を水道水で洗った。
きっと味は変わらないだろう。
変わったとしても、それはそれでよいのだ。

2006-01-02

僥倖からの始まり

「良い入門書を書ける人こそ一流だ」と、尊敬する先輩がよく口にする。分かりにくいことを分かりにくく書くのは意外に簡単なこと。難しいことこそ、誰にでも分かるようにかけるのが能力なのだという主張には私も全面的に同意する。
それに加えて、入門書とはその世界への扉になるものだ。どのドアから入るかで、その世界の印象と深みは全く違うものになる。

私の歌舞伎入門はまさに僥倖だった。
高校生の私は歌舞伎に興味はあるが、テレビでさえいくらも見ておらず、ただ図書館にあった玉三郎丈の写真集で信じられないくらい美しい人が実在することを知ったばかりの、にわかファンという程でもない、全くの素人だった。(今もそれは変わらないけど。)
そんな高校生が初めて歌舞伎の舞台を見たのは山鹿の八千代座。玉三郎丈の「山姥」と「大蛇」だった。

今でもはっきりその時の情景を覚えている。奇稲田姫から岩永姫へ、大蛇へと役柄を変えつつ踊る玉三郎丈。衣装の色が白から黒、鮫小紋の赤へと変わって蛇体の本性が表される。酒に酔った大蛇の目元がほんのり赤い気すらする、不埒なまでの艶な美しさ。
お囃子を聞き取ることもおぼつかない、本当に何もかも知らない子供は、舞台に魅了されるとはどういうことか、をその日教えられたのだ。

八千代座という空間がまた素晴らしいものだった。もう日本にいくつかしか残っていない、江戸から続く古い芝居小屋で、天井には絵看板が飾られ、桟敷は升で仕切られている。当然キャパも少ない。全部で300人入るだろうか。劇前になると小屋の人がぱたんぱたんと音を立てて蔀を下ろしていく。空間は外部から独立し、熱気は閉じこめられて、小屋は一体のものとなる。
そんな中で見る芝居が幸せなものでないはずがない。(*1)

あの幸運から歌舞伎に入門したことを、今でもしみじみと恵まれていたと考えることがある。あの日があればこそ、今でも私にとって歌舞伎はかけがえのない喜びの一つであり続ける。
そんな僥倖を与えてくれた玉三郎丈と八千代座とに深く感謝している。


---
*1
博多座などのいわゆる西洋式の劇場は歌舞伎には大きすぎると常に感じる。(文楽は言うまでもない)
江戸にしてもその前にしても、芝居小屋というのは1000人も入るようなスペースではなかったはずだ。せいぜい100から200人の観客を前提にして作られている芝居を、そんな大きい空間で本当に楽しむことが出来るのは前から30列目当たりまでの高い席を買える人ばかりだ。
しかし、そういう席を買えたにしても、八千代座の二階席で見る武原はんの「雪」の情感には凡そ及ぶまいと思う。

2005-12-24

籠釣瓶 雑感

スカパー歌舞伎チャンネルにて、勘三郎丈襲名披露の籠釣瓶を鑑賞。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。

歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。

今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)

道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。

勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。

チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。