好きだった、大好きだった。
学ぶことも、考えることも、分析することも。
新しい知識に触れ、蓄積し、それが自分の中で体系化されていくあの感触。
特別な時間を贅沢に過ごしたんだと思う。
今の苦境も、結局は自分が招いたことだ。
自分の決断に(もしくは決断できなかった自分に)
責任を取らねばならないということ。
多分それだけ。
それでも、与えられた場所があるのだからそのために努力しなくては。
最後まで頑張ろう。出来ることはそれだけだ。
最後まであきらめずに頑張ろう。
2006-01-02
僥倖からの始まり
「良い入門書を書ける人こそ一流だ」と、尊敬する先輩がよく口にする。分かりにくいことを分かりにくく書くのは意外に簡単なこと。難しいことこそ、誰にでも分かるようにかけるのが能力なのだという主張には私も全面的に同意する。
それに加えて、入門書とはその世界への扉になるものだ。どのドアから入るかで、その世界の印象と深みは全く違うものになる。
私の歌舞伎入門はまさに僥倖だった。
高校生の私は歌舞伎に興味はあるが、テレビでさえいくらも見ておらず、ただ図書館にあった玉三郎丈の写真集で信じられないくらい美しい人が実在することを知ったばかりの、にわかファンという程でもない、全くの素人だった。(今もそれは変わらないけど。)
そんな高校生が初めて歌舞伎の舞台を見たのは山鹿の八千代座。玉三郎丈の「山姥」と「大蛇」だった。
今でもはっきりその時の情景を覚えている。奇稲田姫から岩永姫へ、大蛇へと役柄を変えつつ踊る玉三郎丈。衣装の色が白から黒、鮫小紋の赤へと変わって蛇体の本性が表される。酒に酔った大蛇の目元がほんのり赤い気すらする、不埒なまでの艶な美しさ。
お囃子を聞き取ることもおぼつかない、本当に何もかも知らない子供は、舞台に魅了されるとはどういうことか、をその日教えられたのだ。
八千代座という空間がまた素晴らしいものだった。もう日本にいくつかしか残っていない、江戸から続く古い芝居小屋で、天井には絵看板が飾られ、桟敷は升で仕切られている。当然キャパも少ない。全部で300人入るだろうか。劇前になると小屋の人がぱたんぱたんと音を立てて蔀を下ろしていく。空間は外部から独立し、熱気は閉じこめられて、小屋は一体のものとなる。
そんな中で見る芝居が幸せなものでないはずがない。(*1)
あの幸運から歌舞伎に入門したことを、今でもしみじみと恵まれていたと考えることがある。あの日があればこそ、今でも私にとって歌舞伎はかけがえのない喜びの一つであり続ける。
そんな僥倖を与えてくれた玉三郎丈と八千代座とに深く感謝している。
---
*1
博多座などのいわゆる西洋式の劇場は歌舞伎には大きすぎると常に感じる。(文楽は言うまでもない)
江戸にしてもその前にしても、芝居小屋というのは1000人も入るようなスペースではなかったはずだ。せいぜい100から200人の観客を前提にして作られている芝居を、そんな大きい空間で本当に楽しむことが出来るのは前から30列目当たりまでの高い席を買える人ばかりだ。
しかし、そういう席を買えたにしても、八千代座の二階席で見る武原はんの「雪」の情感には凡そ及ぶまいと思う。
それに加えて、入門書とはその世界への扉になるものだ。どのドアから入るかで、その世界の印象と深みは全く違うものになる。
私の歌舞伎入門はまさに僥倖だった。
高校生の私は歌舞伎に興味はあるが、テレビでさえいくらも見ておらず、ただ図書館にあった玉三郎丈の写真集で信じられないくらい美しい人が実在することを知ったばかりの、にわかファンという程でもない、全くの素人だった。(今もそれは変わらないけど。)
そんな高校生が初めて歌舞伎の舞台を見たのは山鹿の八千代座。玉三郎丈の「山姥」と「大蛇」だった。
今でもはっきりその時の情景を覚えている。奇稲田姫から岩永姫へ、大蛇へと役柄を変えつつ踊る玉三郎丈。衣装の色が白から黒、鮫小紋の赤へと変わって蛇体の本性が表される。酒に酔った大蛇の目元がほんのり赤い気すらする、不埒なまでの艶な美しさ。
お囃子を聞き取ることもおぼつかない、本当に何もかも知らない子供は、舞台に魅了されるとはどういうことか、をその日教えられたのだ。
八千代座という空間がまた素晴らしいものだった。もう日本にいくつかしか残っていない、江戸から続く古い芝居小屋で、天井には絵看板が飾られ、桟敷は升で仕切られている。当然キャパも少ない。全部で300人入るだろうか。劇前になると小屋の人がぱたんぱたんと音を立てて蔀を下ろしていく。空間は外部から独立し、熱気は閉じこめられて、小屋は一体のものとなる。
そんな中で見る芝居が幸せなものでないはずがない。(*1)
あの幸運から歌舞伎に入門したことを、今でもしみじみと恵まれていたと考えることがある。あの日があればこそ、今でも私にとって歌舞伎はかけがえのない喜びの一つであり続ける。
そんな僥倖を与えてくれた玉三郎丈と八千代座とに深く感謝している。
---
*1
博多座などのいわゆる西洋式の劇場は歌舞伎には大きすぎると常に感じる。(文楽は言うまでもない)
江戸にしてもその前にしても、芝居小屋というのは1000人も入るようなスペースではなかったはずだ。せいぜい100から200人の観客を前提にして作られている芝居を、そんな大きい空間で本当に楽しむことが出来るのは前から30列目当たりまでの高い席を買える人ばかりだ。
しかし、そういう席を買えたにしても、八千代座の二階席で見る武原はんの「雪」の情感には凡そ及ぶまいと思う。
2005-12-24
籠釣瓶 雑感
スカパー歌舞伎チャンネルにて、勘三郎丈襲名披露の籠釣瓶を鑑賞。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。
歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。
今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)
道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。
勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。
チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。
歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。
今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)
道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。
勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。
チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。
2005-08-10
「わたしたち」のエコ
最近いくつかのエコロジーを訴えるサイトを見たのだが、いつも気になるのが「わたしたち」という言い回し。
〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。
確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。
「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。
〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。
確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。
「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。
2005-05-21
ナルニアとキリスト教
先ほど「最後の戦い」までの全巻を読了。前に書いたジェンダーバイアス以上に、キリスト教思想とオリエンタリズムから来る差別意識の強さにぐったりしてしまった。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。
奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。
こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。
奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。
こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。
2005-05-18
ナルニア
これまた今頃になってナルニアを読み始めたのだが。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。
指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。
どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。
色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。
思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。
指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。
どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。
色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。
思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。
2005-05-04
Bloggerの使い心地
実はここが2つ目のblogになるんだけど(mixi入れると3つ目か)大変快適。
何が一番いいって、エントリを書くための入力スペースが使いやすいこと。スペースが広くて、フォントの設定が大きめで、何だか自分のエディタに書くように書きやすい。
テンプレートもシンプルで綺麗だし、なんだかいいなあ。あとはカテゴリ分けに対応してくれれば言うことナシ。
あ、画像のアップロードに関してはまだよく分かってないんだけどね。
何が一番いいって、エントリを書くための入力スペースが使いやすいこと。スペースが広くて、フォントの設定が大きめで、何だか自分のエディタに書くように書きやすい。
テンプレートもシンプルで綺麗だし、なんだかいいなあ。あとはカテゴリ分けに対応してくれれば言うことナシ。
あ、画像のアップロードに関してはまだよく分かってないんだけどね。
電子辞書でテキスト
電子辞書でテキストファイルを読んでいる。パソコンの画面は書くのはともかく読むのには適さないと思っているので、ちょっと長めの文章ならSDカードに保存して電子辞書で読む。ちなみに使っているのはシャープのコレ。
メリットが大きいと思うのは英文を読むとき。一々単語を打ち込まなくても本文中からジャンプで検索できるのが本当に便利。電子辞書の前はpalmで同じように内蔵辞書を使って読んでいたのだが、そりゃーもちろん英英、英和、和英としっかり揃えてある電子辞書の方が何倍も便利だ。かなりさくさく読めて、気分がよろしい。
しかし、こんなに便利なのにSDに普通に保存したテキストが読めるのはシャープでも2機種だけ。カシオが新しく出した機種ではテキストに対応したようだけど、わざわざ別のソフトを使ってUSB接続した辞書にファイルをアップロードしないといけないらしい。面倒だ。siiも外部辞書用のスロットが付いた機種を出したけど、こちらは自社規格のカードで汎用性が低い。
確かに、もっと自由度が高くファイルを扱いたいならPDAを使うべきなんだろうけど、現行のPDAで電子辞書に入っているような冊子体フルコンテツの辞書を載せている物はない。(ソニーのにあったかも……。)自分で辞書データを変換して使うのは結構手間がかかるし、大容量のSDカードなどの出費も馬鹿にならない。
結局、電子辞書で読むのが一番効率がよいのだ。すべての、とは言わないがもっとたくさんの電子辞書が外部スロットを持ってテキストファイルに対応してくれると本当にありがたいんだけど。
加えて言うなら、メモ程度でいいから簡単なテキスト入力ができるとなお便利なんだけどな。携帯にだってスロットが付いて、テキスト入力と保存ができるんだからそんなに大変な技術ではないと思うんだけど。siiあたりが英断で出してくれないかな。
メリットが大きいと思うのは英文を読むとき。一々単語を打ち込まなくても本文中からジャンプで検索できるのが本当に便利。電子辞書の前はpalmで同じように内蔵辞書を使って読んでいたのだが、そりゃーもちろん英英、英和、和英としっかり揃えてある電子辞書の方が何倍も便利だ。かなりさくさく読めて、気分がよろしい。
しかし、こんなに便利なのにSDに普通に保存したテキストが読めるのはシャープでも2機種だけ。カシオが新しく出した機種ではテキストに対応したようだけど、わざわざ別のソフトを使ってUSB接続した辞書にファイルをアップロードしないといけないらしい。面倒だ。siiも外部辞書用のスロットが付いた機種を出したけど、こちらは自社規格のカードで汎用性が低い。
確かに、もっと自由度が高くファイルを扱いたいならPDAを使うべきなんだろうけど、現行のPDAで電子辞書に入っているような冊子体フルコンテツの辞書を載せている物はない。(ソニーのにあったかも……。)自分で辞書データを変換して使うのは結構手間がかかるし、大容量のSDカードなどの出費も馬鹿にならない。
結局、電子辞書で読むのが一番効率がよいのだ。すべての、とは言わないがもっとたくさんの電子辞書が外部スロットを持ってテキストファイルに対応してくれると本当にありがたいんだけど。
加えて言うなら、メモ程度でいいから簡単なテキスト入力ができるとなお便利なんだけどな。携帯にだってスロットが付いて、テキスト入力と保存ができるんだからそんなに大変な技術ではないと思うんだけど。siiあたりが英断で出してくれないかな。
2005-05-03
脱衣婆
「真夜中の弥治さん喜多さん」に脱衣婆が地母神だと自ら名乗る場面があるのだが、田中貴子氏の「性愛の日本中世」に脱衣婆には生と死を司る機能がある、という箇所を見つけてビックリ。生まれるときに胞衣(えな)袋〈つまり胎盤ですね〉を貸し与え、死んだときにはその衣を奪うのが脱衣婆の役割なんだそうで、象徴的に生死を司る存在であるらしい。よく見ると胞衣にも「衣」の字が入ってるし、そのあたりも関連しているのだろう。
しかし、しりあがり寿奥が深い。他の作品も気になるところ。
***
追記。
脱衣婆の「衣」についてもう少し考えてみた。
仏教的には現世にある人は「魂・たましい」と「魄・からだ」とが合一した存在で、死ぬと「魂」が「魄」から離れて黄泉路へ行くと考えられている。ということは、地上に産まれるにあたってはじめて人は「魄」という「かたち」を得るのだと考えられる。
つまり、脱衣婆がひとに貸し与え、奪う「胞衣袋」「衣」が、すなわちこの「魄」に当たるのではないのだろうか。ひとは胎盤によって魂を包む「かたち」である人の体を手に入れ、また死ぬときに三途の川の此岸で、すなわち生死の最後の境界線を越える直前、まだぎりぎり人である時点で衣服というひとの「かたち」を脱衣婆に返上して川を越え、「魂」に戻るという一連の流れを見ることができるのだ。
「衣」に象徴される生死に伴う「魄」の管理を司るのが脱衣婆の持つ役割なのだといえる。「三途の川の脱衣婆」と呼びならわされるように、死に関わる側面ばかりが一般に強調される脱衣婆が、こんなに重要な存在だったとは…。
しかし、しりあがり寿奥が深い。他の作品も気になるところ。
***
追記。
脱衣婆の「衣」についてもう少し考えてみた。
仏教的には現世にある人は「魂・たましい」と「魄・からだ」とが合一した存在で、死ぬと「魂」が「魄」から離れて黄泉路へ行くと考えられている。ということは、地上に産まれるにあたってはじめて人は「魄」という「かたち」を得るのだと考えられる。
つまり、脱衣婆がひとに貸し与え、奪う「胞衣袋」「衣」が、すなわちこの「魄」に当たるのではないのだろうか。ひとは胎盤によって魂を包む「かたち」である人の体を手に入れ、また死ぬときに三途の川の此岸で、すなわち生死の最後の境界線を越える直前、まだぎりぎり人である時点で衣服というひとの「かたち」を脱衣婆に返上して川を越え、「魂」に戻るという一連の流れを見ることができるのだ。
「衣」に象徴される生死に伴う「魄」の管理を司るのが脱衣婆の持つ役割なのだといえる。「三途の川の脱衣婆」と呼びならわされるように、死に関わる側面ばかりが一般に強調される脱衣婆が、こんなに重要な存在だったとは…。
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