ラレーのマリオン26、色はマルーンレッド。
(マルーンとは何かと思ったら、マロンのことらしい。ブラウンとボルドーの入った、シックな赤。)
ママチャリ風の外観(しかも前かごをつけたのでさらにママチャリ的。)だけど、実はクロスバイク。
標準装備の泥よけやスタンドを含めても12.5kgしかない。
走りはともかく“なめらか”。
タイヤが38と太めなので、早さはそんなに出ないんだけど、軽い力でどこまでも滑るように走る。舗装が綺麗な道路だと音もしないんじゃないかっていうぐらい。
26インチのタイヤは意外に取り回しが良くて、小回りもきくし、走り出しのスピードもすぐにのってくれる。
ともかく乗っていて気持ちがいい、走るのが楽しい。
主に片道5kmの通勤に使う予定なのだけど、早くも週末には天神まで買い物に行ったり、室見川まで軽く走ってみたり。この調子でいろいろと行動範囲を広げてくれそうな予感がする。
2008-03-17
2007-12-24
JIB for D40
カメラ用に注文していたJIBのダッフルバッグが到着。サイズはSS。
これがまた、軽くてかわいくて丈夫で、しかもカメラバッグには見えないという(私にとっては)いいことづくしの一品。
クッションケースに入れたD40と、お財布、ケータイ、文庫本、手帳(rido)、化粧品(ミニマム)程度は楽に入る。詰め込めばもうちょっといけるかもしれない。
カメラを入れずに、旅行用の手回り品バッグにもぴったりなサイズ。(その場合はペットボトルやガイドブックを追加で。)
今日初使用で、1日持って歩いてみたが、取り回しもいいし、何よりショルダーストラップが肩から落ちないのが、ものすごくありがたい。
(↑かなりなで肩なので、大抵のストラップ類は下がってきてしまう)
先日別のバッグで出かけたときはカメラを重く感じたけど、今日は特に気にならなかったのはおそらくこのおかげではないかと。
ストラップ以外にしっかりした持ち手がついているのもとても便利。レジでの支払いとか、ちょっと手持ちしたい、という場面は意外にある。
鞄自体が薄くて軽いので、中身にあわせて自然に変形して体に沿ってくれるところもいい。
カメラバッグの候補に、妹が使っているCRUMPLER も入っていたのだが、形がかっちりしすぎて嵩張るのが気になっていたのだ。もっとも、海外に行くときなんかは、あれぐらいしっかりしたバッグの方が安心感があるかもしれない。
使い回しを考えて黒を選んだのだが、前面とストラップにあしらわれたクジラマークがアクセントになってホントにかわいい。黒はそんなに汚れが目立つ色ではないけど、いざというときは洗えるという安心感もポイント高い。
実はこれ、vanillaからのクリスマスプレゼント。大事に長く使おうと思う。
日本茶と茶こし
日本茶のおいしさって、多少のにごりの中にある気がする。
茶こしを使ってきっちり濾してしまうと、なんだか味がしゃらっとしすぎて物足りない。というかはっきりと不満。
どこかのお茶屋さんが、「(急須の中で)茶葉をぎゅっと押しつける」過程がないと味が出ない、といっていたのを読んだけど、まさにその通り。
急須の内部にある茶こしでこしきれない茶葉があって、それが湯飲みの底に沈んでいるようなお茶の方が、私にはおいしいと感じる。
紅茶の場合はざらつきを防ぐために目の細かい茶こしできちんと濾すこと、渋みが出るので茶葉に圧をかけずに抽出するティーポットを選ぶこと、というのはほとんどセオリーになっている。
中国茶は茶葉を裁断しないのが基本。なので、茶こしを使わなくてもあまり茶器に茶葉が入らない。それでも気になる人は茶こしを使う、という感じ。好みで選ぶ。
同じ木の葉っぱを使って作る飲み物への感覚が、これほどそれぞれに違ってくるのは本当に不思議だ。だからお茶飲みはやめられない。
茶こしを使ってきっちり濾してしまうと、なんだか味がしゃらっとしすぎて物足りない。というかはっきりと不満。
どこかのお茶屋さんが、「(急須の中で)茶葉をぎゅっと押しつける」過程がないと味が出ない、といっていたのを読んだけど、まさにその通り。
急須の内部にある茶こしでこしきれない茶葉があって、それが湯飲みの底に沈んでいるようなお茶の方が、私にはおいしいと感じる。
紅茶の場合はざらつきを防ぐために目の細かい茶こしできちんと濾すこと、渋みが出るので茶葉に圧をかけずに抽出するティーポットを選ぶこと、というのはほとんどセオリーになっている。
中国茶は茶葉を裁断しないのが基本。なので、茶こしを使わなくてもあまり茶器に茶葉が入らない。それでも気になる人は茶こしを使う、という感じ。好みで選ぶ。
同じ木の葉っぱを使って作る飲み物への感覚が、これほどそれぞれに違ってくるのは本当に不思議だ。だからお茶飲みはやめられない。
2007-12-18
2008の手帳 その1。
2008年の手帳 その1。
一度は使ってみたい、ちくま文庫手帳をセレクト。
食事メモ、覚え書き、行動記録に。
(スケジュールは昨年通りにridoのミニプランナーで。)
書き込み用のペンが決まらないのが悩み。bicの4色ボールペンが一番いいんだけど、一緒に携帯するのが難しい。
かといって、せっかくの安野光雅氏の表紙絵をカバーで覆ってしまいたくないし…。
今年この手帳を使った友人は万年筆もいいといっていたので、試してみたくはあるんだけど、何にせよ考えないとね。
2007-12-14
さてさて。
ずいぶんと長いことさぼっていたブログを再開してみようと思う。
この1年半ほどの間で、Picasaとbloggerとigoogle(今ひとつかっこわるい名前。グーグルホームで十分だったのでは…。)との間がかなりシームレスになった。今はすべての写真をPicasaで管理しているのだけど、そこからボタン一つでエントリできるのはとてもよろしい感じ。
(ただ、日本語版igoogleではbloggerはまだなんだか隅っこの方にある感じで、意外にgoogleがブログスペースを持ってることを知らない人も多そうだ。)
あとは、ラベル機能がついたのは特筆に値する。カテゴリを分けすぎるのも混乱の元だけど、すべてのエントリが並列なのはちょっと不便すぎるから。
ともかく、モノを書く場所があるのはいいことだ。辺境の片隅でも、誰かの目にとまることもあるかもしれない。
この1年半ほどの間で、Picasaとbloggerとigoogle(今ひとつかっこわるい名前。グーグルホームで十分だったのでは…。)との間がかなりシームレスになった。今はすべての写真をPicasaで管理しているのだけど、そこからボタン一つでエントリできるのはとてもよろしい感じ。
(ただ、日本語版igoogleではbloggerはまだなんだか隅っこの方にある感じで、意外にgoogleがブログスペースを持ってることを知らない人も多そうだ。)
あとは、ラベル機能がついたのは特筆に値する。カテゴリを分けすぎるのも混乱の元だけど、すべてのエントリが並列なのはちょっと不便すぎるから。
ともかく、モノを書く場所があるのはいいことだ。辺境の片隅でも、誰かの目にとまることもあるかもしれない。
2006-06-13
2006-02-21
茶壺と蓋碗

中国茶の茶壺は水道水で洗ってはいけないと言われている。
塩素を吸収して、お茶の味に影響が出るから必ず沸騰したお湯ですすぐのが良いと。
うちにも一つだけ茶壺がある。
高い物ではないが、手作りで、凹凸があるのになめらかな土の表面をしている。
私には大事な物なので、一生懸命マニュアル通りに沸騰湯で洗って使っていた。
そのうちに、お茶に向かう気合いがないときには使わなくなり、 とある蓋碗を入手したのと入れ替わりに台所の片隅の茶道具コーナーに収まってしまった。
蓋碗というのは茶托と蓋のついた茶碗で、これもまた中国茶の茶道具の一つ。
茶を飲むのにも使えるし、淹れることも出来る。
素材は大体磁器かガラスの物が多いのだが、私の蓋碗は土物。常滑の産だ。
おそらく釉はかかっていない、ざらりとした手触り。しかし繊細。
安定性も良く、ガラスなどに比べて熱くなりにくい。とても使いやすいのだ。
その使いやすさと、土物ゆえに雑味を吸収して綺麗なお茶を入れてくれる質の良さに、あっという間に私の中国茶器はこの蓋碗一辺倒になってしまった。
で、ある時ふと気付いたのだ。
私はこの蓋碗を、何の疑問も持たずに水道水で洗っていることに。
日本茶の急須よりも、茶壺よりもよっぽど塩素を吸収しやすそうな蓋碗。
しかし、そのせいでお茶の味が悪くなったとは全く感じられない。
変わらずに甘みの際だつ、すっきりとしたお茶を飲ませてくれる。
台湾茶芸のイメージもあって、中国茶は複雑な手順を踏まなくてはならないと言う無意識の規範にいつのまにやら私も囚われていたようだ。
そんなことよりも、日常の中で茶を楽しみ、茶の時間を楽しむのでなければ、折角の茶器も茶道具も、手元にある甲斐がないというもの。
久方ぶりに茶壺を引っ張り出して台湾の梨山茶を入れた。
茶海にお茶が注がれるこぽこぽと小さな音。
香りが鼻の奥から口に、目の奥にまで抜けていく。
そして、思い切りよく茶壺を水道水で洗った。
きっと味は変わらないだろう。
変わったとしても、それはそれでよいのだ。
2006-01-02
僥倖からの始まり
「良い入門書を書ける人こそ一流だ」と、尊敬する先輩がよく口にする。分かりにくいことを分かりにくく書くのは意外に簡単なこと。難しいことこそ、誰にでも分かるようにかけるのが能力なのだという主張には私も全面的に同意する。
それに加えて、入門書とはその世界への扉になるものだ。どのドアから入るかで、その世界の印象と深みは全く違うものになる。
私の歌舞伎入門はまさに僥倖だった。
高校生の私は歌舞伎に興味はあるが、テレビでさえいくらも見ておらず、ただ図書館にあった玉三郎丈の写真集で信じられないくらい美しい人が実在することを知ったばかりの、にわかファンという程でもない、全くの素人だった。(今もそれは変わらないけど。)
そんな高校生が初めて歌舞伎の舞台を見たのは山鹿の八千代座。玉三郎丈の「山姥」と「大蛇」だった。
今でもはっきりその時の情景を覚えている。奇稲田姫から岩永姫へ、大蛇へと役柄を変えつつ踊る玉三郎丈。衣装の色が白から黒、鮫小紋の赤へと変わって蛇体の本性が表される。酒に酔った大蛇の目元がほんのり赤い気すらする、不埒なまでの艶な美しさ。
お囃子を聞き取ることもおぼつかない、本当に何もかも知らない子供は、舞台に魅了されるとはどういうことか、をその日教えられたのだ。
八千代座という空間がまた素晴らしいものだった。もう日本にいくつかしか残っていない、江戸から続く古い芝居小屋で、天井には絵看板が飾られ、桟敷は升で仕切られている。当然キャパも少ない。全部で300人入るだろうか。劇前になると小屋の人がぱたんぱたんと音を立てて蔀を下ろしていく。空間は外部から独立し、熱気は閉じこめられて、小屋は一体のものとなる。
そんな中で見る芝居が幸せなものでないはずがない。(*1)
あの幸運から歌舞伎に入門したことを、今でもしみじみと恵まれていたと考えることがある。あの日があればこそ、今でも私にとって歌舞伎はかけがえのない喜びの一つであり続ける。
そんな僥倖を与えてくれた玉三郎丈と八千代座とに深く感謝している。
---
*1
博多座などのいわゆる西洋式の劇場は歌舞伎には大きすぎると常に感じる。(文楽は言うまでもない)
江戸にしてもその前にしても、芝居小屋というのは1000人も入るようなスペースではなかったはずだ。せいぜい100から200人の観客を前提にして作られている芝居を、そんな大きい空間で本当に楽しむことが出来るのは前から30列目当たりまでの高い席を買える人ばかりだ。
しかし、そういう席を買えたにしても、八千代座の二階席で見る武原はんの「雪」の情感には凡そ及ぶまいと思う。
それに加えて、入門書とはその世界への扉になるものだ。どのドアから入るかで、その世界の印象と深みは全く違うものになる。
私の歌舞伎入門はまさに僥倖だった。
高校生の私は歌舞伎に興味はあるが、テレビでさえいくらも見ておらず、ただ図書館にあった玉三郎丈の写真集で信じられないくらい美しい人が実在することを知ったばかりの、にわかファンという程でもない、全くの素人だった。(今もそれは変わらないけど。)
そんな高校生が初めて歌舞伎の舞台を見たのは山鹿の八千代座。玉三郎丈の「山姥」と「大蛇」だった。
今でもはっきりその時の情景を覚えている。奇稲田姫から岩永姫へ、大蛇へと役柄を変えつつ踊る玉三郎丈。衣装の色が白から黒、鮫小紋の赤へと変わって蛇体の本性が表される。酒に酔った大蛇の目元がほんのり赤い気すらする、不埒なまでの艶な美しさ。
お囃子を聞き取ることもおぼつかない、本当に何もかも知らない子供は、舞台に魅了されるとはどういうことか、をその日教えられたのだ。
八千代座という空間がまた素晴らしいものだった。もう日本にいくつかしか残っていない、江戸から続く古い芝居小屋で、天井には絵看板が飾られ、桟敷は升で仕切られている。当然キャパも少ない。全部で300人入るだろうか。劇前になると小屋の人がぱたんぱたんと音を立てて蔀を下ろしていく。空間は外部から独立し、熱気は閉じこめられて、小屋は一体のものとなる。
そんな中で見る芝居が幸せなものでないはずがない。(*1)
あの幸運から歌舞伎に入門したことを、今でもしみじみと恵まれていたと考えることがある。あの日があればこそ、今でも私にとって歌舞伎はかけがえのない喜びの一つであり続ける。
そんな僥倖を与えてくれた玉三郎丈と八千代座とに深く感謝している。
---
*1
博多座などのいわゆる西洋式の劇場は歌舞伎には大きすぎると常に感じる。(文楽は言うまでもない)
江戸にしてもその前にしても、芝居小屋というのは1000人も入るようなスペースではなかったはずだ。せいぜい100から200人の観客を前提にして作られている芝居を、そんな大きい空間で本当に楽しむことが出来るのは前から30列目当たりまでの高い席を買える人ばかりだ。
しかし、そういう席を買えたにしても、八千代座の二階席で見る武原はんの「雪」の情感には凡そ及ぶまいと思う。
2005-12-24
籠釣瓶 雑感
スカパー歌舞伎チャンネルにて、勘三郎丈襲名披露の籠釣瓶を鑑賞。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。
歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。
今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)
道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。
勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。
チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。
勘三郎の次郎左右衛門に、玉三郎の八橋で。
歌舞伎に興味を持ち始めた頃に、吉右衛門さんの次郎左右衛門で見て、幕切れの名台詞、「籠釣瓶は良く切れるなあ。」に何とも言えないほど強烈な印象を与えられた作品。
こんなにも鮮やかに収束する悲劇、言葉にも出来ないほどの哀感が、(情景と共に)一言に凝縮されていることに心を揺さぶられ、ずっともう一度見たいと思っていた。
もう、何年も何年も前の記憶である。
今回の勘三郎さんの次郎左右衛門は記憶にある吉右衛門さんの時よりも、ずっと物腰が柔らかい感じで、この人が殺人を決意するほどの狂気に陥ることがあるのだろうかと、ぼんやりと感じながら見続ける。
当たり前すぎるが、玉三郎さんの八橋のあでやかさ、美しさは比類なく、一瞬の微笑で他人の人生を変えることができる女性の存在が確かに造形されていた。
(余談だが、往年ほど女優の美しさに価値を置かなくなった現在の映画、ドラマにおいて、このようなファム・ファタルの美の力に説得力を持たせられるのは、もしやもう歌舞伎だけなのではないだろうか。)
道中、縁切りと話は進んで、とうとう幕切れ。
実は、これを見る前に、「自分が殺した女の顔を見たい、という心境で、刀を見つめる従来の型から、八橋の顔をのぞき込んで終わるように変えた」ということを話しておられた勘三郎さんのインタビューを見ていた。どのような演技をされるのか。
思ったより静かに八橋を切って、幕切れのセリフ、刀を蝋燭の火であらためる。
そして、もう一度八橋を見る次郎左右衛門の顔。それまで(隈取りも濃くして)一種の張りつめた錯乱とでも言うか、常軌を失った顔を続けていた次郎左右衛門が、ふとゆるんだ表情になる。自分を取り戻したような、これまでの行動を振り返るような、後悔と安堵とよく分からないものがない交ぜになったような顔。
何だかこの悲劇の始まりから終わりまでが、ぐっと胸に迫ってくるようで、思わず涙が出た。ストーリーも既知のものだし、まさか泣くとは思わずにいたのに。
避けられなかった運命に引きずられて、最愛の女を殺してしまった男の顔。取り返しが付かないことを、自らの手でなしてしまった男。しかし、出会ったことも殺したことも、彼自身ではどうしようもないことだったのだと 語るその顔。
そして、幕。
勘三郎さんの次郎左右衛門は言葉ではなくその顔に、悲劇を収束させることを選び、また可能にしたのだ、と思った。鮮やかな終劇とはまたひと味違う、ぐっと重みのある、しかし儚さもあるラストシーン。
チェン・カイコー監督の「覇王別妃」で「人には運命がある」「運命に逆らってはならない」とくり返し語られていたことがふと胸をよぎる。自己の選択による人生など思いもよらない時代に生きる人々が、共通して持っている諦観なのかもしれないと小さな苦みを感じた。
2005-08-10
「わたしたち」のエコ
最近いくつかのエコロジーを訴えるサイトを見たのだが、いつも気になるのが「わたしたち」という言い回し。
〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。
確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。
「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。
〈「わたしたち」の快適な生活のために地球が汚されています。〉〈「わたしたち」が安い商品を買うために低賃金で過剰な労働を強いられている人々がいるのです〉云々。
確かに環境問題は地球規模のもので、関わりがないといえる人は一人もいないだろう。南北間の経済格差の問題にしても同様で、経済先進国に住んでいる限り無関係とは決して言えない。
しかし、それはすべて「わたし」の問題であるべきではないだろうか。生活の中で環境汚染をしているのも「わたし」なら、経済格差の上で不当な搾取を行っているのも「わたし」なのだ。
「わたしたち」という言葉で主体が複数化されるときに、必ず責任の所在は曖昧になる。発言者にその意図があろうと無かろうと、問題は個人のものから一般のものへと変化し、個人の手を離れてしまう。
結局どのような社会的に価値ある運動も、人々が「わたし」の問題として捉えるようになるまでは有効に機能しないのではないだろうか。
「わたし」が悪いのだ、と心から思わない限り、人は〈便利な生活〉を手放すことなど出来ない。
2005-07-27
ぜっっったい見に行く!!!
「ジョン・ウー監督の三国志映画、主演に渡辺謙を起用。」っですって?!
思わず鳥肌が立った。曹操役だなんて、なんて素晴らしいキャスティングだろう。「独眼竜政宗」以来の渡辺健ファンとしては、これは決して見逃してはならない。
この映画は長い長い三国志の中から、特に「赤壁の戦い」を中心に制作されるらしい。「演義」にでのイメージに従うなら、曹操はやはり敵役だ。特に前半の山場の一つである赤壁では劉備が初めて曹操に勝利をあげる場面でもあり、いわば敗戦の将の役であるからこそ、異例の日本人主演起用がなされた、って事もあるだろう。
しかし、ポイントなのはこれが惨めな敗戦ではないということ。関羽との義があればこそ、ここでの曹操は逃げ延びることが出来たのだから。
私の大好きな北斎の肉筆画に「赤壁の曹操」を描いたものがある。月夜に小さい船で一人落ち延びていく曹操は、櫓を垂直に構えてぴしりと立ち、落ち来た方を見つめる目線には威厳を感じる。まさか、この絵が映画の中で再現されるとは思わないが、構図といい、雰囲気といい健さんが演じるにぴったりの場面であることは間違いない。
チョウ・ユンファ、トニー・レオンなどの名前も候補に挙がっているようだが、渡辺健の演義は居並ぶ中国人スターの中で必ず観客を魅了してくれるだろう。完成、そして公開が今から楽しみでならない。
思わず鳥肌が立った。曹操役だなんて、なんて素晴らしいキャスティングだろう。「独眼竜政宗」以来の渡辺健ファンとしては、これは決して見逃してはならない。
この映画は長い長い三国志の中から、特に「赤壁の戦い」を中心に制作されるらしい。「演義」にでのイメージに従うなら、曹操はやはり敵役だ。特に前半の山場の一つである赤壁では劉備が初めて曹操に勝利をあげる場面でもあり、いわば敗戦の将の役であるからこそ、異例の日本人主演起用がなされた、って事もあるだろう。
しかし、ポイントなのはこれが惨めな敗戦ではないということ。関羽との義があればこそ、ここでの曹操は逃げ延びることが出来たのだから。
私の大好きな北斎の肉筆画に「赤壁の曹操」を描いたものがある。月夜に小さい船で一人落ち延びていく曹操は、櫓を垂直に構えてぴしりと立ち、落ち来た方を見つめる目線には威厳を感じる。まさか、この絵が映画の中で再現されるとは思わないが、構図といい、雰囲気といい健さんが演じるにぴったりの場面であることは間違いない。
チョウ・ユンファ、トニー・レオンなどの名前も候補に挙がっているようだが、渡辺健の演義は居並ぶ中国人スターの中で必ず観客を魅了してくれるだろう。完成、そして公開が今から楽しみでならない。
2005-06-16
National Treasure!
ご存じショーン・ビーン(…またです)目当てで見に行きました。私的には本筋に関係のないショーンのシーンがめちゃ楽しかったv粗は色々ありすぎて描ききれないぐらいなんだけどね。とりあえず言うなら国宝も可燃物ありなんじゃ?ってとこかな。
これが今AmazonでDVD予約受付中なんですが、2293円だって。ちょっと買っちゃってもいいかな、っていうぐらいのお値段だなあ。どうしようかなあ。今月散財してるから…。
もひとつびっくりしたのは、冒頭、主人公の子供時代のシーンでヤケに美形のおじいちゃんだと思っていた人が、サウンドオブミュージックのトラップ大佐だったこと!エーデルワイスのあの人が!!!
いやあ、ステキなご老人だなあと思ったんだよね。さすがだなあ。
両親の唯一の思い出映画(デートで見たんだろうなあ…)らしく、うちにサントラLPがありました。
子供の頃から大好きな映画の一つだけど、大人になってから見たら大佐は若々しくてとっても可愛い人だった事に気づきました。やたら怖い人(最初はね)で、ちょっとだけ根っこの方がユーモラスだと思ってたのに。視点って変わるもんだね。
これが今AmazonでDVD予約受付中なんですが、2293円だって。ちょっと買っちゃってもいいかな、っていうぐらいのお値段だなあ。どうしようかなあ。今月散財してるから…。
もひとつびっくりしたのは、冒頭、主人公の子供時代のシーンでヤケに美形のおじいちゃんだと思っていた人が、サウンドオブミュージックのトラップ大佐だったこと!エーデルワイスのあの人が!!!
いやあ、ステキなご老人だなあと思ったんだよね。さすがだなあ。
両親の唯一の思い出映画(デートで見たんだろうなあ…)らしく、うちにサントラLPがありました。
子供の頃から大好きな映画の一つだけど、大人になってから見たら大佐は若々しくてとっても可愛い人だった事に気づきました。やたら怖い人(最初はね)で、ちょっとだけ根っこの方がユーモラスだと思ってたのに。視点って変わるもんだね。
2005-06-01
床下の小人たち
こちらも大人になってから読み始めた作品。Vanilla(同居人・パートナー)が子供の頃愛読していたらしく、ぜひ読めと勧められた。
Borrowers(借り暮らしと訳されている)の人々の生活を描いた物語なのだが、そのリアリティがすごい。彼らは夢の小人ではなく、生活者なのだ。食べ物のこと、家具のこと、大きい人たちから借りて形作られる彼らの暮らしが丹念に描かれている。
主人公アリエッティとポッド(父)とホミリー(母)という3人家族を中心に物語は進むのだが、私は特にホミリーが素晴らしいと思った。最初大きな家に住んでいる頃のホミリーはヴィクトリア朝的なピューリタニズムを基盤としていて、その規範の中で生きている印象がある。娘のアリエッティは冒険心に飛んでいるので、そんな母に行動を止められたりとがめられたりすることに不満を持つ。が、大きな家を追われ、野原で生活し始めると、はじめは不満と不安で一杯だったホミリーが徐々に解放されていくのだ。娘と木登りをして開放感を感じたり、行動や決断が大胆になっていく。中学生くらいの子供を持つ母親、という立場の人物の変化をこういう側面から書いていくことはなかなか出来ないと思う。大体は一家の安全弁としての役割を振るのではないだろうか。非常に興味深い。
まだ3作目までしか読んでいないので今後の展開は分からないが、私の希望としてはホミリーが自分の規範から逃れ出て、より開放的な人になっていって欲しいと思う。
現在岩波少年文庫から年に1冊ずつ新版が発行されているのだが、もう少し発行ペースをあげて、せめて年に2冊出してくれると嬉しいんだけども。
Borrowers(借り暮らしと訳されている)の人々の生活を描いた物語なのだが、そのリアリティがすごい。彼らは夢の小人ではなく、生活者なのだ。食べ物のこと、家具のこと、大きい人たちから借りて形作られる彼らの暮らしが丹念に描かれている。
主人公アリエッティとポッド(父)とホミリー(母)という3人家族を中心に物語は進むのだが、私は特にホミリーが素晴らしいと思った。最初大きな家に住んでいる頃のホミリーはヴィクトリア朝的なピューリタニズムを基盤としていて、その規範の中で生きている印象がある。娘のアリエッティは冒険心に飛んでいるので、そんな母に行動を止められたりとがめられたりすることに不満を持つ。が、大きな家を追われ、野原で生活し始めると、はじめは不満と不安で一杯だったホミリーが徐々に解放されていくのだ。娘と木登りをして開放感を感じたり、行動や決断が大胆になっていく。中学生くらいの子供を持つ母親、という立場の人物の変化をこういう側面から書いていくことはなかなか出来ないと思う。大体は一家の安全弁としての役割を振るのではないだろうか。非常に興味深い。
まだ3作目までしか読んでいないので今後の展開は分からないが、私の希望としてはホミリーが自分の規範から逃れ出て、より開放的な人になっていって欲しいと思う。
現在岩波少年文庫から年に1冊ずつ新版が発行されているのだが、もう少し発行ペースをあげて、せめて年に2冊出してくれると嬉しいんだけども。
2005-05-21
ナルニアとキリスト教
先ほど「最後の戦い」までの全巻を読了。前に書いたジェンダーバイアス以上に、キリスト教思想とオリエンタリズムから来る差別意識の強さにぐったりしてしまった。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。
奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。
こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。
奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。
こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。
2005-05-18
ナルニア
これまた今頃になってナルニアを読み始めたのだが。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。
指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。
どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。
色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。
思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。
指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。
どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。
色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。
思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。
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