2005-05-21

ナルニアとキリスト教

先ほど「最後の戦い」までの全巻を読了。前に書いたジェンダーバイアス以上に、キリスト教思想とオリエンタリズムから来る差別意識の強さにぐったりしてしまった。
「正しい」世界に対抗するものはなぜいつも「肌が浅黒く」「独自の神を信仰している」のだろうか。特にナルニアで悪とされるタシの神はアラーを、カロールメン国は明らかにアラブ世界(おそらくはトルコ)をモデルとして書かれているだけに、キリスト教以外の文化に対するルイスの敵意すら感じてぐったりを通り越して悲しくなる。
「正しい」西洋とキリスト教文化に含まれないものは悪だと見なすことで傷つく読者がいる、と考えることが出来なかったルイスの狭量さは、私には受け入れられない。たとえ、それがイギリスの子供達に「神」について伝えるための物語であったとしても、強者の傲慢に過ぎないと思う。当時のイギリスにだって、大学教授であったルイス自身の周辺にも他教の信仰を持つ人はいただろうに。

奇しくも「最後の戦い」では、偽アスランをでっち上げ、カロールメンと通じてナルニアを乗っ取ろうとする毛ザル達によって「アスランとタシは同じもの」という概念が示される箇所がある。もちろんこの物語では「でっちあげ」だとして否定されてしまうが、私はこのエピソードからユダヤ教を基盤としてキリスト教とイスラム教が誕生したのであり、3宗教における「神」は同一の存在だということを即座に想起した。アスラン=タシの図式は歴史的事実から考えると決して間違っていないのだといえる。(厳密にはアスランは神ではなくキリストを示す存在として書かれているから微妙には違うが。)しかし、これを間違ったこととする人々によって、幾多の宗教戦争が行われてきたこと、それが現代においても終わっていないこともまた歴史的な事実である。ジェンダーバイアスも言説によって再生産され、固定化されていくものだ。宗教差別も同じ事なのではないだろうか。
八百万も神を持ち、本地垂迹も神仏習合も取り入れた文化に育った身としては一神教のひとつの「正しさ」を信じ、他を抑圧する無邪気さが何ともやるせない。

こんなに落胆を感じるのは、この作品がファンタジーとしてとても素晴らしいものだからだ。
好みの問題として、私はどうしてもゲドや指輪に軍配をあげてしまうが、子供の頃に何かステキなものが隠されているのではないかと幾度も首を突っ込んでは、母のコートの肌触りや樟脳の匂いを楽しんだクローゼットの奥から、見知らぬ国へ旅立てるなんて本当に夢のようではないか。
言い古された文句だが、物語を読むことは旅をすることに似ている。ストーリーの中で読者は新しい土地に降り立ち、見知らぬ人と出会い、心を動かす出来事に立ち会う。それをもっとも純粋な形で楽しめるのはファンタジーだろう。そういう意味でナルニアは大変ファンタジーらしいファンタジーだと思う。(私にとっての)瑕瑾が気になって仕方ないのは、心惹かれたことの裏返しなのかも知れない。

2005-05-18

ナルニア

これまた今頃になってナルニアを読み始めたのだが。
トールキンとルイスが大学の同僚であり、物語クラブのメンバーという創作を通しての友人だったので、トールキン関連の文章を読んでいると少なからずルイスとの比較が出てくる。DVDの特典でもルイスについて触れられていたぐらいだ。
そういう際に必ず言われるのは「対称的」な二人だということ。創作面で言えば、「神」の登場をかたくなに拒んだトールキンと、キリスト教思想の体現としての作品を作ったルイスというのは立脚点からまっすぐ正反対だ。

指輪は子供の頃に序章で挫折して、映画をきっかけとして通読した。ナルニアは食わず嫌いというわけでもなく、機会が無くて読んでいなかったものをやはり映画化で興味を引かれて読み始めた。大人になってから読んだ(ちなみにゲド戦記も)、そして文学研究に携わるようになってから読んだという点では条件は同じなんだけど、印象はまさしく正反対。
トールキンの世界は混沌を許容する。価値観はかなり多様で、「正しさ」を信じない。しかし、「もっとも小さきもの」であるホビットが世界の命運を担うことができる。
ルイスはもっと教条的だ。保守的で、ジェンダーバイアスがばりばりにかかっている。(トールキンもジェンダーバイアスは強いし、時代の限界というものがあるのもよく分かるんだけど。)ひとつの価値観に基づいた「正しさ」がはっきりと示され、主人公である子供たちははじめ躓き、間違った行いをしたとしても、必ず「正しさ」の方向へ修正されていく。

どっちが魅力的かは単なる好みの問題かも知れない。でも私としてはトールキンの方が楽だ。トールキンは女性登場人物が極端に少ない(それ自体がバイアスだともいえるが)ので、読んでいて常に偏りを意識させられる、というほどではないが、ルイスの場合はなまじ主人公に女の子がいたりするためにひとつひとつの「女の子というものは」云々という表現に引っかかってしまって、物語の楽しさにすっと入っていけない。
その上、男女共学批判やら、当然だがキリスト教思想やらが出てくるので、一々その辺でため息が出てしまう。なまじ文章を読み込むトレーニングを受けているために余計に気になるというところもあるんだろう。そしてお定まりの「正しさ」に落としどころが用意されているあたりが何ともむず痒い。

色々考えずにすむ子供の頃に読んでおきたかったなあ、とも思うのだが、ジェンダーバイアスというのはそうやって小さい頃から言説の反復で強化されて確立するものだから、それも善し悪しだろう。大体私は子供の頃もバイアスが気になって女の子の登場人物にコミットできなかったクチだし。

思えば「ライオンと魔女」の、フォーンのタムナスさんが尻尾を腕に巻いてルーシィと傘を差して雪道を歩くシーンや箪笥を抜けてナルニアに入るとなぜか街灯がぽつんと立っている、という情景描写を読んだときの新しい物語世界に入っていくわくわくした期待感が一番ステキだったかも…。

2005-05-14

サウンド・オブ・サイレンス 鑑賞

悪役の人であるショーンを目当てに、「サウンド・オブ・サイレンス」鑑賞。
…監督で映画を選ぶことはあっても、俳優で映画を見るようになろうとはちょっと前までは考えられなかったのになあ。まあいいんだけど。

画面も、俳優も良い出来なのに、いまいち身に迫るものが無いというか。そこここのレビューで書かれているとおり、ちょっともったいない映画でしたね。監督やプロデューサーが豪語する「構想12年」というのも信じがたいぐらいな…。

ショーンは現代物になると悪役が多い。(あまりにも端正な美貌なので冷たい印象を持たれるせいではないか、とどこかのインタビュアーが書いていたが、その通りだと思う。)今回も10年前に仲間の裏切りによって奪われた赤いダイヤを手段を選ばず取り戻そうとする犯罪者の役。
ただ、この人場合単なる悪党に終わらないのは、目と目線の演技があるからだと思う。ためらいなく暴力をふるい、人を殺すような役であっても、必ずシーンの中に細かい目線の動きの演技が入っている。少しだけ逸らされた視線や、惑うような瞳の動きによって、役の持っている弱さや、迷いなどの負の内面をセリフによらずに演技の中によぎらせ、人物を複雑なものにしているから見応えがあるのだ。

畢生の名演だったボロミアはもちろん素晴らしいんだけど、この人の演技だけで魅せるような脚本が(出来れば主演で!)回ってこないものか、と思うのはファンの欲目だろうか。絶対に観客をうならせるような映画になること請け合いなのに。(「オデュッセイア」映画化は噂だけで終わっちゃうのかなぁ。 )
直前にヴィゴ・モーテンセン「オーバー・ザ・ムーン」を見ていたので余計にそう感じたのかも知れない。(しかし、何で原題のWalk on the Moonじゃいかんのだ。月を越えちゃってどうするよ。)あの映画は結構地味なストーリーなのに、ヴィゴの演技から目が離せない。

ヴィゴといえば、マイケル・ダグラス。どうしてあんなに悪人面で雰囲気が悪いのか。「ダイヤルM」の時も思ったけど、どう見ても登場人物の中で一番悪い人にしか見えない!演技がうまいだけに印象も強くてなんとも…。

2005-05-04

おめでとう!!!

中学の頃からのお友達が、4月30日に第2子の女の子を出産したそうです。おめでとう!
1月頃はちょっと体調が心配されるようなこともあったので、無事に産まれたというニュースがとてもとても嬉しい。本当に良かったね。
写真を送ってもらった限りではママ似の美人さんになりそうで楽しみです。何とか機会を見つけて会いに行くから、元気にしっかり育ててね。

Bloggerの使い心地

実はここが2つ目のblogになるんだけど(mixi入れると3つ目か)大変快適。
何が一番いいって、エントリを書くための入力スペースが使いやすいこと。スペースが広くて、フォントの設定が大きめで、何だか自分のエディタに書くように書きやすい。
テンプレートもシンプルで綺麗だし、なんだかいいなあ。あとはカテゴリ分けに対応してくれれば言うことナシ。
あ、画像のアップロードに関してはまだよく分かってないんだけどね。

電子辞書でテキスト

電子辞書でテキストファイルを読んでいる。パソコンの画面は書くのはともかく読むのには適さないと思っているので、ちょっと長めの文章ならSDカードに保存して電子辞書で読む。ちなみに使っているのはシャープのコレ
メリットが大きいと思うのは英文を読むとき。一々単語を打ち込まなくても本文中からジャンプで検索できるのが本当に便利。電子辞書の前はpalmで同じように内蔵辞書を使って読んでいたのだが、そりゃーもちろん英英、英和、和英としっかり揃えてある電子辞書の方が何倍も便利だ。かなりさくさく読めて、気分がよろしい。

しかし、こんなに便利なのにSDに普通に保存したテキストが読めるのはシャープでも2機種だけ。カシオが新しく出した機種ではテキストに対応したようだけど、わざわざ別のソフトを使ってUSB接続した辞書にファイルをアップロードしないといけないらしい。面倒だ。siiも外部辞書用のスロットが付いた機種を出したけど、こちらは自社規格のカードで汎用性が低い。
確かに、もっと自由度が高くファイルを扱いたいならPDAを使うべきなんだろうけど、現行のPDAで電子辞書に入っているような冊子体フルコンテツの辞書を載せている物はない。(ソニーのにあったかも……。)自分で辞書データを変換して使うのは結構手間がかかるし、大容量のSDカードなどの出費も馬鹿にならない。
結局、電子辞書で読むのが一番効率がよいのだ。すべての、とは言わないがもっとたくさんの電子辞書が外部スロットを持ってテキストファイルに対応してくれると本当にありがたいんだけど。
加えて言うなら、メモ程度でいいから簡単なテキスト入力ができるとなお便利なんだけどな。携帯にだってスロットが付いて、テキスト入力と保存ができるんだからそんなに大変な技術ではないと思うんだけど。siiあたりが英断で出してくれないかな。

2005-05-03

脱衣婆

「真夜中の弥治さん喜多さん」に脱衣婆が地母神だと自ら名乗る場面があるのだが、田中貴子氏の「性愛の日本中世」に脱衣婆には生と死を司る機能がある、という箇所を見つけてビックリ。生まれるときに胞衣(えな)袋〈つまり胎盤ですね〉を貸し与え、死んだときにはその衣を奪うのが脱衣婆の役割なんだそうで、象徴的に生死を司る存在であるらしい。よく見ると胞衣にも「衣」の字が入ってるし、そのあたりも関連しているのだろう。
しかし、しりあがり寿奥が深い。他の作品も気になるところ。

***

追記。
脱衣婆の「衣」についてもう少し考えてみた。
仏教的には現世にある人は「魂・たましい」と「魄・からだ」とが合一した存在で、死ぬと「魂」が「魄」から離れて黄泉路へ行くと考えられている。ということは、地上に産まれるにあたってはじめて人は「魄」という「かたち」を得るのだと考えられる。
つまり、脱衣婆がひとに貸し与え、奪う「胞衣袋」「衣」が、すなわちこの「魄」に当たるのではないのだろうか。ひとは胎盤によって魂を包む「かたち」である人の体を手に入れ、また死ぬときに三途の川の此岸で、すなわち生死の最後の境界線を越える直前、まだぎりぎり人である時点で衣服というひとの「かたち」を脱衣婆に返上して川を越え、「魂」に戻るという一連の流れを見ることができるのだ。
「衣」に象徴される生死に伴う「魄」の管理を司るのが脱衣婆の持つ役割なのだといえる。「三途の川の脱衣婆」と呼びならわされるように、死に関わる側面ばかりが一般に強調される脱衣婆が、こんなに重要な存在だったとは…。